書評の多い本屋

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デヴィット・フィンチャー監督『ソーシャル・ネットワーク』

・シリコンバレーのサクセスストーリーではない



 私はデヴィット・フィンチャーのファンだ。『ドラゴン・タトゥーの女』に衝撃を受け、その後彼の作品を買いあさった。そんな中で出会った作品が『ソーシャル・ネットワーク』である。
 この映画が公開された当初はまだデヴィット・フィンチャーのファンではなかった上に、友達が「つまんなかった」と言っていたため敬遠していたが、彼が監督している作品だと知り、見てみた。

 『ソーシャル・ネットワーク』は創業者マーク・ザッカーバーグがフェイスブックを立ち上げてから、軌道に乗せるまでの過程を描いた作品である。あらすじにはそんなことが書いてあったので、私は美化されたシリコンバレーのサクセスストーリーなのか、と思って見たが、そんなことはなかった。『セブン』や『ゾディアック』のデヴィット・フィンチャーが、そんな安易な話を描くわけがなかったのである。
 物語はマークが訴えられている二つの訴訟問題で、彼や訴訟側の陳述内容に沿って進む。原告と比較が互いに隣に弁護士を置き、間に長机を挟んみ、時間軸に沿って陳述する。映画はこの訴訟画面と陳述に基づいた回想シーンが代わる代わる挿入される。
 陳述はマークがガールフレンドに振られるところから始まり(先行き不安である)、紆余曲折あって親友のエドゥアルド・サベリンとフェイスブック創業、起業家ショーン・パーカーとの出合い、ショーンが原因のマークとパーカーの確執、そして事実上の敗訴で物語の幕は閉じられる。興味深いのはラストシーンでマークが降られたガールフレンドへ、フェイスブックを通して友達申請を送っているシーンだ(マークは冒頭でガールフレンドから「友達でいましょう」「本当は友達でさえいたくないわよ」と言われている)。

 途中途中で一瞬いかにもナード的な高速タイピングシーンや、常軌を逸した集中力、マークの頭の回転の速さが絵が描かれるものの、そうしたシステマチックなシーンはほとんど力を入れて描かれない。あらすじから分かる通り、この物語が深く掘り下げているのは”ソーシャル・ネットワーク”という題名が示す通り、友達との「つながり」なのだ。
 そもそもショーンが劇中で「リアルでの付き合いをそのままネットに持ち込むんだ」と言っている通り、フェイスブックは現実での社交の経験をネット上で可視化するサービスだ。リアルとバーチャルの関係はリアルが先行している。あくまでリアルあってのバーチャルなのだ。
 映画では、バーチャルの世界で成功したマークのリアルでのつながりはフェイスブックが原因で壊滅する。こうした回路で物語が描かれたのは、この映画の主題に深く関わっており、デビット・フィンチャーからのメッセージに他ならない。

 これほど秀逸な作品が、私の友達にとってつまらないものであった、というのはとても残念なことだ。


THEME:映画感想 | GENRE:映画 | TAGS:

煎茶『メディアが想定するバカとネットが想定するバカ』

・見下すという防衛方法


 ご縁があって(少々一方的な無理やりのご縁ではありますが)、煎茶さまのブログ「異常な日々の異常な雑記」の紹介記事を書かせていただくこととなった。そこで、最近訪れた際に目に飛び込んできたこのタイトルの記事について、紹介しようと思う。

 「メディアが想定するバカとネットが想定するバカ」とは、とてもキャッチーなタイトルだ。そのまま新書になって本屋にでも平積みされていそうなものである。「バカ」という言葉にはなぜか引力がある。世に、ほめ言葉よりも悪口が好まれることと同じ理屈だろうか。それとも、それを好むのは私だけだろうか。
 ところで、数年前に隣家の塀に石で付けた傷で「バカ」と落書きしてあった。私はそれになぜだかえらく感動して、喜んで携帯のカメラで撮影したことを覚えている。バカ、とは子供の落書きの常套句であるが、なぜ落書きには罵倒が多く持ちいれられるのだろう。浮気されて別れた彼女とその浮気相手の名前の相合傘の落書きを見たことがあるが、そっちの方がまだ建設的である。以前は「きっと子供心に世の中にやり場のない憤りを感じ、それを壁に落書きという形で発散させたのだろう」と勝手に納得し悦に入っていたが、最近それはどうも間違いであるように思う。
 誰しも、自分こそが正しいと思いたがる。大なり小なりそれは全人類に共有される気持ちだろう。自分の間違いを認めるのは容易ではない。しかし「自分こそが正しい」と傲慢に言い切ることもいかにも難しい。
 私がこの前やらねばならぬ仕事を忘れ、叱責をもらい、その人に対して謝っていた時、相手に対してこう思っていた。
「お前はおれのことを怒ってストレスを発散させているのだろうけど、必死になって怒る姿を見られて笑われているのはお前だぞ」
 自分に非があることを理解しつつもそれを認めたくない場合は、自分を正当化するのではなく、相手には正当性がないと自分に言い聞かせるのである。それは一種の自衛手段だろう。自分に非があることが正当性を低くするため、相手の正当性をそれより低くしようとする考え方が働くのである。
 もちろんそれは何の解決にもなっていないが、生活を円滑に贈るための知恵であるとも言えるだろう。
 塀に書かれた「バカ」の落書きは、自分以外の不特定多数の正当性を低くしようとする、まだ自意識が定まっていない子供が自分というものを表現するための一つの手段なのではないだろうか。

THEME:その他 | GENRE:その他 |

『平清盛』(NHK,2012)

・『親の役に立てるなら、それは何よりうれしいこと』


 最近、『平清盛』にハマっている。
 『平清盛』は去年放送されたNHKの大河ドラマだ。『坂の上の雲』のヒットの影響か、あまり話題には上らなかったのだが、完結してから現在までじわじわと人気が上がっているように思う。評論家の宇野常寛の影響だろう。そういう私も宇野常寛に影響されて見始めた口である。
 たぶん史実に沿ったオーソドックスな物語なのだろう。大河ドラマをまともに見るのは近作品が初めてのため正確な意見は言えそうもないが、ただ史実に沿ってドラマが進んでいるだけでもNHKの予算の上でそれが行われるとやはり惹きつけられる。
 清盛のライバルとして描かれている源義朝(玉木宏)が15話で言った台詞が気になった。病を患った母を持つ後の常盤御前が美人であることを藤原家が認め、宮中に迎えようとする場面である。病の母を理由に常盤御前が宮入を断った際に、義朝が彼女に言う台詞である。

「親の役に立てるなら、それは何よりうれしいことであろう」

 自分は随分独善的な性格をしているので、これを聞いたときには他人のための人生なんてとんでもない、ましてやそれがどうしてうれしいものか、と思った。私の場合は極端だとしても、現代に生きる日本人には多少なりとも共感してもらえると思う。

・「娘は父のために貞操を売らねばならぬ」


 義朝の台詞を聞いて、新渡戸稲造『武士道』(ちくま新書、2010)の一説を思い出した。

「娘は父のために貞操を売らねばならぬ」

 『武士道』は武士の徳について論じた本であるが、上の一説は「義」を論じる章の中のものである。娘が親のために貞操を売ることの正当性は「義」によって説明づけられる、というのだ。「義」とは道理に沿って行動することである。つまり武士道において、親のために娘が貞操を売ることは道理に沿うことなのだ。武士が死に絶えた世の中に生まれなくてよかったと思う。
 そんな道理が誰にも疑われずまかり通っていた世の中だが、それに対して清盛が対照的な発言をしている。

「この面白くもない世を、自分なりに面白う生きたい」

 作中で何度も繰り返されれる台詞だが、武士の道理に真っ向から反する言葉である。とても親近感を感じる。
 しかしこれは私のように俗な感情から発せられた台詞ではない。これは、源平の戦いを制して隆盛した源氏ではなく、負けた平氏を主人公とするに決定的なテーマだ。
 清盛は、これまで当たり前とされてきた道理に唯唯諾諾と従うのではなく、道理を偏見を持つことなく吟味し、自分なりの正当性=面白さを重要視する、という宣言だ。私の近眼的な享楽主義とは一味違う。
 そんな清盛の行く末を楽しみにしながら、続きを見たいと思う。
 (ちなみに、私が一番親近感を感じたのは作中で「風狂」と評される、雅仁親王(松田翔太)である)



THEME:テレビドラマ | GENRE:テレビ・ラジオ |

安倍公房『カンガルーノート』(新潮文庫、1969)

・非現実的な「喪失」


 私が「最も尊敬する作家は誰か」と聞かれたらしばらく悩んだのちに、「安倍公房」と答える。
 初めて安倍公房を読んだのは、教科書に載っていた『赤い繭』だっと思う。教科書にして10ページもないこの短編に、私はすっかり夢中になった。明瞭な描写、読者に有無を言わせず納得させる剛腕、非現実的な光景の描写の再現率。高校生の私はそれらに圧倒され、すぐに彼の小説を買って読んだ。『赤い繭』の載っている『壁』という本だ。

 『壁』は第一部 S・カルマ氏の憂鬱、第二部 バベルの塔の狸、第三部 赤い繭、の三部構成で、一部と二部は中長編、三部は短編連作の体をとっている。どの部も徹頭徹尾非現実的だ。名前を失った男、狸に影を盗られた男、家を失って繭になる男。どの話も何かを失った男が登場する(最後の短編だけは司祭を自称する人肉ソーセージを売る男がでてくるだけで、明確に何かを失っているわけではないが、さしずめ「道徳心を失った男」だろうか)ので、恐らく安倍公房は「喪失」をテーマにしたのだろう。
 評論家ぶって言うならば、どの人物も失ったものが物質的ではないことは注目に値する。名前や影は言うに及ばず、家を失った男は「帰ることのできる場所」という概念を失っている。『赤い繭』の最後で男は家を手に入れるが、それは男自身が「繭」という家に変身した結果である。本人が家ならば、男は変えることのできる場所を手にしたことにはならない。
 とはいえ、上記の事実から、安倍公房が何を伝えたかったかまでは分からない。それを調べることは本職の評論家に任せようと思う。評論家ではない私は、「読んだら、面白かった」ということしか、言うことができないのである。

・文章からはみ出す前衛性


 安倍公房は文筆家でありながら、文章にこだわらない作家である。彼がいち早く執筆にタイプライターを取り入れたことから分かるように、既存の価値観にとらわれない作家なのだ。
 彼の前衛性は彼の作品にふんだんに現れている。『壁』ではルネ・マグリットも真っ青なシュルレアリスム的挿絵が挿入されているし、名刺や看板は四角い枠の中に横書きで書かれていたりする。ほかの作品では写真も使われている。たぶん石原慎太郎が文壇の長である頃に『壁』を読んでいたら、顔を真っ赤にして「こんなものは文学ではない」と憤慨したことだろう。

THEME:書評 | GENRE:本・雑誌 | TAGS:

朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』(集英社、2012)

・スクールカーストを扱った物語?


 一時期流行った『桐島、部活やめるってよ』という本を読んでみた。自分は流行りの本は読みたくない、という無個性な天邪鬼なのであらかたブームが去ってしまった今読むことになった。もちろんブームが去った時期だけではなく、スクールカーストを扱った物語だという書評が多く目についたことが同書を購入に踏み切った理由だ。

 読んでみて、期待していたほどスクールカーストに踏み込んだ話ではなかった、というのが素直な感想だ。スクールカーストについてはWikipediaが詳しい(執拗なまでに詳しく描写されている。たぶん執筆者がスクールカーストの底辺に所属していて、屈折したうらみつらみをWebに乗せたのだろうと思う)。

 本書は六人の高校生と文庫化にあたって加筆された一人の中学生の視点からそれぞれの学生生活が語られる。彼らには学校がカースト制度のように段階的に地位が別けられた社会である、と自覚している者もいればいない者もいる。しかし自覚している人でさえ、「イケている」「イケていない」の二層構造しか認識しておらず、スクールカーストが複数の階級からできている複雑なものだということには無自覚だ。スクールカーストに自覚的な人ならば何かの機会にその言葉を知り、Wikipediaで「スクールカースト」の項を調べてみるくらいしているものではないかと思うのだが。まあ、仕方ないのかもしれない。学生生活を送っている当人にとっては自分がイケているかイケていないかだけが一大事なのであって、どんな人がどういう風にイケていないのかまでは考える必要はないのだろう。

・語り手が複数の私小説


 前述したとおり、同書は複数の人物の視点から語られる。語り手は、男子/女子、イケている/イケていないというさまざまな属性を持つ。それぞれの独白に、すでに役目を終えた語り手がちらと登場したりするのだが、その淡泊な登場の仕方は、学校生活においては自分に親しい人物でなければ大した関わりがない、という事実に焦点を当てているようで面白い。

 同書の解説の中で映画監督の吉田大八は「当時十九歳の作者が同世代の気持ちをここまで徹底的に対象化、描写し得たことは素直に驚く」と言っている。確かに同書は多数の視点から一つの高校で繰り広げられる多様な生活に焦点を当てることによってさまざまな視点を確保し、なおかつ複数の人物を掘り下げることに成功している。しかし本当にこれは多数の視点から語られた小説なのだろうか。

 わたしはこの小説を「複数の自分の視点から語られた私小説」として読んだ。この小説の中で、体育の授業を運動神経がいい人間の視点から詳しく語られることはない。逆に運動できない人間の視点からは、微に入り細を穿つようにして運動できない人間の体育がいかに悲惨かが描写される。同書が真に「同世代の気持ちをここまで徹底的に対象化、描写し得た」作品であるならば、スポーツマンの体育は彼らから見てどんな風に楽しいのか、もしくはスポーツマンだけが享受できる体育の楽しさに彼らがいどれほどに無自覚かを書かなけらばならないのではないだろうか。このスポーツマンと運動音痴の描写の密度の乖離は、作者自身があまり運動が得意ではなかったからではないだろうか。同書には中学校時代は「イケている」グループだったが、高校生になり「イケていないグループ」に所属することになってしまった映画部員が登場する。彼は運動が得意ではない。他の「イケている」語り手はみな軒並み運動が得意だが、過去に「イケていた」彼だけが特異な設定を与えられている。

 私は映画部員の彼が一番作者に近いのではないかと思う。朝井は「イケている」グループと「イケていない」グループの両方を経験したからこそ、『桐島、部活やめるってよ』を書こうと思ったのではないだろうか。

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